Bad Chocolate

 まずいチョコレートが食べたくなったのは今日が二月十五日だったからだ。残念ながら僕の求めているものは家の冷蔵庫の中には入っていない。当然のことながら買ってきてほしいと頼んですぐに買って来てくれるような友人も、今となっては昨日のバレンタインデーにチョコレートを作ってくれるような恋人もいない。そもそも、外に出かけたところでまずいチョコレートなんてものが手に入るとは思えなかったけれど、いずれにしても家の中にいて手に入るものではない。仕方ないので家の外へと出ることにした。
 ネットで安く手に入れたグレーのダッフルコートを羽織り、家の外へと出ると冷たい空気が肌に突き刺さった。冬将軍が本領を発揮しているのだろう、早く春の芽吹きの気配を感じたい。
 今年は寒くなるのが例年より早かった。十一月の中旬にはすでに一月の寒さになっていたとは天気予報士の談。彼らは往々にして間違っていることもあるが、少なくともこの寒さについては間違いないことだろう。なにしろこの寒さを身をもって感じているのだから。寒い十一月の中旬から二月の中旬の今になるまで、延々と寒さが続いていて、家にある灯油ストーブも十一月の末くらいには出していた。灯油を販売するトラックもその頃には類を見ない早さで住宅街に雪やこんこを響かせていた。ただ価格が高いので自分で購入したことは一度しかない。
 どこに行くとははっきりとは決めていなかったけれど、とりあえず駅に向かうことにして歩き出した。歩いて五分。これ以上遠かったら途中のコンビニで温かい飲み物でも欲しくなる距離を一人黙々と歩いて行く。ポツポツとすれ違う人たちも首をすくめて迫り来る冷気に対して必死の抵抗をしている。それに対して意味が無いのは同じことをしている僕が一番わかっていた。
 少し鼻をすすりながらすれ違う人たちに小さな親近感を抱いていると駅へとたどり着いた。大きくもなく、小さくもなく。駅前にコンビニと一つか二つの飲食店があるくらいの最寄り駅には、やはり多くもなく少なくもなく、それなりの人が電車の到着を今か今かと待っていた。
 タイミングよくホームへと滑りこんできた電車へ乗り込んで、中心街へと向かうことにした。電車に十五分ほど揺られると適度に都会で適度に田舎な目的地へとたどり着く。この辺りは中途半端なのだ。振りきれるならとことん田舎か、とことん都会に振りきれるべきなのだ。中庸が最上のものである、なんて言っている人がいることを倫理の授業で習った気がするが、そんなことはない。何かに振り切れていないと何物にも勝てない存在になるしかない。
そんなことを考えてはみるものの、けれどもやはりこのあたりだけで考えてみれば一番の賑わいを見せているこの街は、買い物をするには一番適切な選択肢だった。
 少しだけ考えて、ひとまず駅から一番近い百貨店へと向かうことにした。平日の昼間だからか、街を行く人はまばらで、学生の特権である早い冬休みを喜ばしく感じるのは久しぶりだった。
 百貨店の店内はついこの間までのピンク色の甘ったるい風合いは消え去っていて、どちらかと言うと白、僕と同じ性別の男を狙った、言ってしまえばホワイトデーの商戦が始まっているらしい。流石にここに僕が探し求めているものはないか、と思っていると、正面から突然聞き覚えのある声がかかった。
「あれ、三宅じゃん、どうしたの」
 学部の同学年の皆口だった。全体的に丸みが残っていて、幼さがどことなく残る彼女の表情は、遊び相手を見つけた子供のそれだった。白い三角巾にぴっちりとした黒いシャツ、その上に白いエプロンをして販売コーナーの内側にいるところから見ると、どうやらアルバイト中のようだった。普段のボーイッシュ気味の服装からすると、いやに胸部が強調されていて、なんだかちょっと妙な気持ちになった。
「皆口じゃん、何してんの」
 そんな白々しい台詞を口にすると、バイト中だよ、暇だけど、という当たり前の台詞が返ってくる。それに付随して、三宅は何してるの、なんていう若干答えづらい質問まで飛んできた。数瞬、なんと答えようか迷ったけれど、別に目的自体を話すことは問題無いと判断して正直に話すことにした。なぜそうしてるかを話さなければ、僕はただの変人で済む。
「まずいチョコレートを探してるんだけど、知らない?」
「は?」
「だから、まずいチョコレート」
「いや、そこを聞き返したわけではなくて……」
 怪訝そうな顔をして僕に聞き返してきた皆口はすぐにその表情を思案顔へと変化させていく。何について考えているかはわからない。僕の要望に応えるお店を脳内検索にかけているのか、それともまずいものをわざわざ探す理由を思案しているのか。
「流石にお店にまずいものは売ってないんじゃないかな? このお店だってなかなか美味しいよ、手前味噌で悪いけど。まっ、今はホワイトデーセール中だからチョコレートよりは別のお菓子だけどね。いずれにしても、私はこの辺りでまずい店って知らないなぁ。しかもチョコレート限定だと余計難しいんじゃないの。ていうか、そもそも最近あんまりますい店ってないよね、美味しくない店はあるけど、まずい店はチェーン店に淘汰されちゃうんだろうね。嘆かわしい」
 どうやら、前者だったらしい。それにしても、皆口は相変わらずよく喋る。一年生のミクロ経済学の講義で偶然隣に座って知り合ったけれど、初めから僕の話もろくに聞かず、ペラペラとまくしたてられた覚えがある。そもそも、僕があまり喋らないからそれはそれで気楽で良いのだけれど。
「ていうか、この仕事も結構立ちっぱなしで辛いんだよね、短期でそれなりに時給いいからいいんだけどさ。思ってたよりも辛い。三宅が交替してくれてもいいよ?」
「その時給はどこに行くのさ?」
「私の懐」
「じゃあ嫌だ」
 そんなじゃれあうような会話をして軽く笑い合うと、皆口は息をつき、僕にこう続けた。
「さて、そろそろお仕事しないとねー、あんまり喋ってると怒られちゃいそう。そこで一つ、三宅に素敵なプレゼントをあげよう」
 皆口が僕の視界から、菓子のショーケースの影に隠れて半分消えたかと思うと、すぐに僕の視界へと戻ってくる。
「はい」
 そう言って突き出した皆口の右手の先には白いビニール袋が握られていた。
「このお店の美味しい美味しいお菓子です。持って帰って食べると良いよ、私のおごり。それともう一つ。理由はあえて聞かないけれど、まずいチョコレートを食べたいのなら、そうだね、今は二時過ぎだから五時間後くらいに大学にいくといいよ、そんな未来が見える」
「何、皆口って超能力者か占い師だっけ?」
「どっちも違うよ、私はただおせっかい焼きなだけでございます。一つと言ったのに二つプレゼントをしちゃうくらいにはね。ささ、お仕事モードに戻るから三宅はあっちいった」
 しっし、と手を振られてしまい、僕は苦笑いをして皆口の前から歩を進めた。少し進んでから、他のワゴンを見るふりをして、もう一度皆口の方を見ると、彼女の笑みからは僕と話していた時に浮かべていた子供のようなものは消え去り、代わりに大人の女性のそれが浮かび上がっている。
普段見ることのないその表情に少しだけ心が揺さぶられる。これだから女って生き物は怖い。心の中でそうひとりごちた。
それにしても、理由は聞かないけれど、なんてわざわざ言うところに皆口らしさを感じた。気になるから正直に言え、なんてわざわざ言わないけれど、気にはなっている、というポーズ。うっかりすると話してしまうかもしれないけれど、まぁ、今日のところはそれはない、と思う。
そう、そういえば、理由。まずいチョコレートを食べたい理由。
まぁ、端的に言ってしまえば、二年くらい前まで交際していた彼女の思い出だ。
思えば、彼女は記念日だとかイベント事を異常に嫌っていた。クリスマスも、誕生日も、付き合った記念日も、そして当然のことながら昨日みたいなバレンタインも。
けれど、そのくせに誰よりも記念日やイベント事に憧れていた。だから、クリスマスの次の日にはなんとなく食べたいからといってケーキを食べに行って、なんとなく買ったというプレゼントを貰った。もちろんその日はお泊りなんていうものをした。誕生日の次の日に会う約束をしていないと、すぐに不機嫌になった。その頃は彼女のことをまだ理解していなくて、機嫌を直すのにどれだけ時間がかかったことか。付き合って一年の次の日に似合うと思って、と言って渡したネックレスを一日中嬉しそうに眺めていた。バレンタインの次の日には不格好でまずいチョコレートを持ってきた。ぶっきらぼうにチョコレートを突き出す彼女はやっぱりこう言った。
「なんとなく、だから」
 念を押すように何度もその言葉を繰り返す彼女を僕はとても愛おしく思ったものだ。そして、その台詞を思い返す度に今も愛おしく思ってしまう。
僕がまずいチョコレートを食べたい理由はこんなところだ。つまりは、いつまでも前の彼女を振りきれない、忘れられない男のつまらない感傷。それだけ。
友人からにはいい加減別の良い人を見つけろと言われるけれど、そんな簡単に良い人が見つかるならそれこそ前の彼女とはきっと付き合っていない。
彼女のことを振り切れていないのは当時、それと当然ながら今の僕にとって、彼女が最良の人というだけだ。
周りの人はそういう自分の一番の人が簡単に入れ替わっていくみたいだけれど、僕はそうではない。一度好きになった人を忘れるなんてことはそう簡単にはできない。
近頃は流石に少しずつ記憶が薄れていくように思うけれど、この街にはまだ忘れられない記憶がいくつも残っていてふとした瞬間にそれを思い出す。
一緒に食べたいちごのタルトの味だとか、初めて二人で泊まったホテルとか、手をつないで歩いた帰り道とか。
そんな思い出がこびり付いている街をあてもなく彷徨う。いくつかのお店で試食をさせてもらったけれど、まずいチョコレートは見つからない。「美味しくない」ものはいくつかあったけれど、「まずい」ものは残念ながら発見することはできなかった。
「やっぱりないよなぁ」
 少し歩き疲れて入った安い喫茶店でそう呟いた。回りには暇そうなサラリーマンや昼下がりの奥様方、あとはどういう関係かよくわからない男女複数名グループがいるくらいで、かなり空いていた。平日の昼下がりなんてこんなものかもしれない。
 よくよく考えてみれば、いや考えなくてもわかることだったけれど、街中に出てまずいチョコレートを探すこと自体が間違いだったのかもしれない。
そりゃわさびチョコレートだとか、ジンギスカンチョコレートなんていう色物を選べばまずいチョコレートは簡単に手に入る。けれど、僕が求めているのはそういうまずさじゃなくて、純粋なまずさなのだ。作られたまずさではなくて、必死になった結果できてしまったまずさ。そういうものを求めているのだ。
残された手段としては精々、皆口の当てにならない予言に頼るしか無い。けれども、予言であった五時間後まではあと長針が三回り程。もう行く場所も無いし予言なんて信じたところでどうしようもない。
帰ろう。そう決意したところで携帯が震えた。画面を見て、思わずため息をつく。幸か不幸か、行く場所ができてしまった。画面にはこんな文章。
『店を開けたはいいんだが、少し早いせいか暇なんだ。少し安くするから飲みにおいで』

   *****

「やぁやぁ、いらっしゃい。この寒い中よく来たね。暇だったのかい?」
「呼んだのは金屋町さんでしょう。まぁ、外出中じゃなかったら来なかったですけどね、寒いし。とりあえずジントニックください。いつも通り」
「はいはい、君もちゃんと私の言うことを覚えてくれて嬉しいよ」
「初めはジントニックじゃないと出してくれないのは貴女でしょう。本当は温かいものでも飲みたいんですけど」
「男子諸君がモテるためにわざわざ教えてあげてるんだから、感謝してほしいものだけどねぇ。まっ、ホットカクテルもあるから、それはジントニックが済んでからね」
 そう言って金屋町さんは僕の目の前にロンググラスを差し出してくる。彼女お得意のジントニックだ。
 先ほどのメールは目の前にいるこの女性からだった。年齢不詳、出生不明、客商売をしているとは思えないほど偉そうな態度、しかしバーテンダーとしては超一流。そんな彼女が経営しているバー「エスカルゴ」のカウンター席が今ボクの座っている場所だった。
立地としては僕の通っている大学からだいたい徒歩で十分くらい。そこまで悪くない立地だけれども、単価は上がらないだろう。儲かってるかどうか聞いてみた事があるけれど「私はバーに来る人を増やしたいだけだからね、利益は度外視さ」そう言ってニヒルに微笑んでいた。正直その笑みはなかなかに蠱惑的だった。
目の前に置かれたジントニックを口に含む。ライムの香りが口の中に広がる。乾いていた喉にさっぱりとした炭酸の刺激が心地よい。
「相変わらず結構なお点前ですね」
「お褒めに授かり光栄だけど、そのお茶の先生を褒めるような言い方はやめてくれるないかな? 私は先生ではなく、良き友であるつもりだからね」
 はいはい、と軽く受け流すと、サービスだよ、と言ってナッツが僕の目の前に差し出された。確かにつまみもなしに酒だけ飲み進めるのも楽しいものではない。アーモンドを一つ取って口に放り込む。なんの変哲もないナッツの味がした。
しばらくの間ナッツとジントニックの共演を楽しんでいると、そういえば、と金屋町さんが切り出した。
「この馬鹿みたいに寒い中出かけてたのかい?」
「えぇ、買い物したかったので」
「元カノとの思い出の品とかでも?」
 何も返事ができなくなってしまい、目の目のジントニックを更に一口。先ほどより多く飲んだからか少し喉が熱くなった。そんな僕の様子を見て金屋町さんは声を上げて笑う。誰もいない店内に響く彼女の笑い声はなんだか結構大きく聞こえた。BGMも流れていないせいだと思いたい。
「いやいや、すまない。まさか図星だとは思わなかったものでね。お詫びに何か一杯ごちそうすることにしよう。さっき言ってたから、ホットカクテルでいいかい?」
「なんでもいいです。お任せします」
 少し不機嫌にそう返すと、金屋町さんはまた少しだけ笑って、カウンターの後ろに引っ込んだ。どうやら裏の方で作るらしい。
僕はそれが出来上がるまでの間に目の前のジントニックを飲んでしまおうと、ピッチを上げる。元々あまり酒が強くない僕はその一杯だけでもわりと脳へとお酒が回っているような気がする。お昼もろくに食べていないし、先ほど食べたナッツくらいでは腹は満たされない。空きっ腹で酒を飲むのはやはり良くない。
軽く酔いが回った頭で考えるのは、やはり彼女の事なのが今日の僕の情けないところだ。付き合っている頃にこの店を知っていればきっとここに連れてきただろう。金屋町さんは若干性格に難があるが、悪い人間では無いし、なによりこの店の雰囲気はかなり良い。
『相変わらず、君たちは仲がいいね』
『そんなことないですよ、よく喧嘩しますし』
『喧嘩しても仲直りできるのは、仲がいい証拠なんだよ、今はわからないだろうけどね』
 そんな彼女と金屋町さんの会話を聞きながらジントニックを飲んでいたのかもしれない。たまに彼女と喧嘩した時に相談に乗ってもらったり。彼女も同じことをしていて、その後金屋町さんからそのことを聞いて、なんとなく照れくさかったり。
そんなバカらしい妄想も、もし彼女と今でも付き合っていたら現実になったかもしれない。そう思うと、あの頃の自分を恨みたくなる。何も知らなくて、何もできなくて、彼女を傷つけてしまった僕を。
でもきっと彼女と付き合っているままだったら彼女を傷つけていることには全く気がついていなかっただろう。
 そういう意味では僕は成長できたとは思う。けれどその成長が幸せであったかというと、決してそうではない。
 進めなくなってしまった。彼女を傷つけたことに気づいていなかった。そのことに気づいてしまったから、他の人も自分が気づかないうちに傷つけてしまうのではないか、と思ってしまう。自分が気づかないうちに、自分が好きになった人を傷つけてしまうのは、怖い。自分の大好きな人を傷つけたくない。そう思う。
言い訳でしかないけど、そんな今の僕に必要なのは単純なきっかけだ。きっかけがないから前に進めない。しかも、僕から作るものではなく、相手から作ってくれるきっかけ。そうであれば、言い訳がつく。『勝手に妄想を抱いて、勝手に現実を見つめて、勝手に傷ついただけ』だと、他人に言うことができる。そんな僕は最低だと思う。これじゃ成長ではなく、退化だ。
結局のところ、彼女と別れて得たものは思い出、彼女への妄執、それと自分が傷つかないための言い訳くらいだったのかもしれない。
「どうした、気色悪い顔して。自省でもしてたのか?」
 そんな声がかかって僕は現実へと引き戻される。気づくと金屋町さんがカウンターの元へと戻ってきていた。僕の目の前のグラスはすでに空になっていて、空いたグラスと交換で僕の目の前には、約束通りのホットカクテルが置かれる。チョコレートの香りが広がった。
「いつまでも昔の失恋を引きずる君にアンハッピーバレンタイン、ということでチョコレートカクテル。それと、酒を飲んだ時に自省はやめておいたほうがいいよ、死にたくなるだけだから。ということで、いい加減新しい恋を見つけてもいいんだよ? どうだい、私とか」
 そう言って金屋町さんは僕にウインクをした。僕はそれを無視して、目の前のグラスを傾ける。上に乗せられた冷たい生クリームとその下の温かいチョコレートの液体が入り混じってちょうどいい温度になる。口の中には、生クリームのさっぱりとした甘みとチョコレートの濃厚な甘み、それとアルコール独特の苦味が広がる。
「おいおい、せっかく誘惑してあげてるのにそれはないんじゃないか?」
「純朴な青少年をからかうのはやめてくださいよ」
「純朴な青少年は私のような美女にこんなこと言われたら顔を赤くして頷くものだよ? というわけで君に純朴な、なんていう形容詞は似合いません。精々、執着心が強いくらいになるんじゃないかな?」
「それはごもっともです」
 僕は軽く笑う。金屋町さんはショットグラスをカウンターの下から出すと、冷蔵庫からボトルを一本出して、グラスへと注いでいく。目の前から漂うチョコレートの香りを上塗りするように、更に強いチョコレートの香りが鼻孔をくすぐる。
「なんです、それ?」
「チョコレートのウォッカだよ。あまり手に入らないものでね。せっかく暇だし、今日は君に付き合って、飲んでしまおうかなと思ってね」
 そう言って一気にショットグラスの中の液体を飲み干すと、体を震わせ細く長く息を吐く。たまらない、と言った表情でもう一杯ショットグラスへと注いでいく。
「……それ、これ飲み終わったら一杯もらえます?」
「おや、酒には滅法弱い君が珍しいね。どういう風の吹き回しだい?」
「金屋町さんにいじめられたんで、その腹いせに。それと強い執着心には強いお酒がよく効くかな、と思いまして」
「逆効果だけどね、それは。まぁ、こっちも商売だから断らないで出すけどさ」
「それと、もう一つ聞きたいことが」
「なんだい?」
「それまずいですか?」
「私が出した酒がまずかったことがあるかな?」
「……愚問でしたね」
「わかればよろしい」
 そう言って金屋町さんはカウンターの下からもう一つショットグラスを取り出した。

   *****

 ホットカクテル、それとチョコレートウォッカを飲み干してから、店を出た。世界はもうすっかり暗闇に包まれていた。少しだけ歩いて大学へたどり着くと、図書館から漏れ出る光が眩しい。
結局のところ、皆口のよくわからない予言めいたものを信じて大学まで来てしまった。まぁ、二時間ほど前に金屋町さんのところに行った時点でここに来るのはもう既定事項みたいなものだったけれども。
試験が終わっているので当然ではあるが、人の姿はまばらだった。けれど街中よりは人がいるような気がする。ただ単に人口密度の問題なのだろうけれど、ほんの少しだけ人恋しくなっていた僕にとってはちょっとだけ嬉しかった。
しかし、辿り着いたは良いものの、僕はどこへ向かえばいいのか。そもそも、皆口のあんな妄言なんて信じてよかったのだろうか。
講義室の詰まった自分の学部棟はすでに施錠されている。理系の学部棟では、そこらじゅうで明かりが付いているようだったけれど、いきなり連絡するほど仲の良い友達はいないし、そもそも理系の知り合い自体もあまりいるようなものではない。
構内を二十分ほど彷徨っていると、程良い酔いが徐々に冷めてきて、先ほどまであまり感じていなかった寒さが急に体中に襲ってきた。
この寒さには正直敵わない。少しでも暖まれて休める場所、というと自分が所属しているサークルの部室くらいしか思い当たらなかった。駅に戻って帰るのもいいかもしれないが、ここからだと部室のほうが近かった。少し暖を取って、楽になったらそれから帰ればいい。
 ちょうど良く見つかった自販機で温かいココアを手に入れて、両手の中に包み込み暖を取りながら部室へと向かう。
二、三分も歩くとこじんまりとした三階建ての部室棟が見えてくる。塗装も剥げてその下のコンクリートがところどころむき出しなのが時代を感じさせる。階下から窓を覗くと部室の中は真っ暗だった。どうやら誰も居ないらしい。当然か。
コンクリートを鳴らしながら二階分の階段を登り三階へ。階段のすぐ隣が目的地だった。鍵を外して中へ入ると暖かみのある空気が横を流れていく。
 この気温の中で部屋から暖かい空気が流れてくるということは、つい先程までは誰かがいた事になる。どうやら入れ違いになったようだ。
 手探りで明かりのスイッチを探り当てると、部屋の中には蛍光灯の無骨な白い光が部屋を照らす。ソファに腰をかけて一息つくと体を少しの倦怠感が包んだ。ちょっと歩き疲れたかもしれない。
暖房のスイッチを入れ、上着を脱ぐ。その上着はその辺に投げ捨てて、手の中にあったココアの缶に口をつけることにした。
それは買ったばかりなのに、外気にあっという間に温もりを奪われてしまったようで、口に含むと過剰な甘みと、血液のような妙なぬるさが口の中に広がった。買ってすぐ飲まなかったことを後悔する味だった。
大した量の入ってないココアはあっという間に僕の胃の中へと流れこんでいき、時計の長針は殆ど進んでいないのに、缶からは完全にココアの温もりは消え去り、冷たい金属の塊になっていた。
そこでふと、皆口の言葉を思い出した。
『まずいチョコレートを食べたいのなら、そうだね、五時間後くらいに大学にいくといいよ』
 食べると言うよりは飲むだし、正確にはチョコレートではなくてココアだけれど、カカオである以上チョコレートの一種であると言われてしまえばそれもそうだと納得するより他はない。見事かどうかはともかくとして、皆口の予言が的中したわけだ。
これはある意味一本取られたのかもしれない、と思ったら少しだけ面白くなって鼻で笑ってしまった。
皆口には感謝するべきか、それとも非難するべきか迷ってしまう。まぁ、ある意味当たってはいるわけだけれども、僕が求めていたものでは決して無い。
もっと詳しく話していたら、もっと詳しい予言が手に入ったのかもしれない。僕が本当に求めているそれが手に入ったかもしれない。けれど、彼女に僕のくだらない感傷を話すことは、くだらないとわかっていても小さな自尊心がそれを許すことはない。そんな自尊心が捨てきれない自分が嫌いになる。
そんな自己嫌悪に陥っていると、僕しかいないはずの部屋に小さな駆動音がしていることに気づいた。音源がどこかと見回してみると、どうやらテレビのすぐ横にあるゲーム機の駆動音のようだった。
誰かがつけっぱなしで帰ったのか、と思ったけれど、ふと思い立ってテレビの電源をつける。プラウン管テレビ独特のエフェクトが広がった後、画面には少し古臭いCGのキャラが戦闘を行っているところでポーズがかけられている。
流石にわざわざこの状態にしてうっかり帰ってしまう、なんていうことはないだろう。待っていればその内誰か帰ってくるかもしれないし、晩飯でも誘ってみるか、と思い立ったところで隣の壁の向こう側から、階段を登ってくる音がした。
防音性が露ほどもないこの部室棟では異常に隣の部屋の音が聞こえる。この部屋はよりによって階段の隣だから、誰かが上がってくると、すぐにわかるのだった。人によっては足音で誰か来たかわかる部員もいる。その部員がそれこそ未来予知をしているかのように誰が来るか言い当てるので、何故わかるのか聞いてみたら足音だよーん、と軽い返事をされたのを覚えている。
残念ながら僕にはそのような能力は身についていないので、この部室に入ってくる人間なのか、それとも逆側に向かったりとかこの部屋の前を通りすぎてしまう人間なのかとかはわからない。
今日については、どうやらこの部屋を開ける人間だったようで、足音が部屋の前で一度止まると「開けてー」と少しくぐもった声で聞こえる。
ソファから腰を浮かせて扉を開けてやると、その声の主はそそくさと室内へと足を進めた。
「いや、寒い、寒い。ありがとね、カップ麺買ったら手がふさがっちゃってさー。誰も居なかったら立ち往生してたよ、多分」
「カップ麺の食べ過ぎは止めろってこの間言わなかったっけ? 体が強いほうじゃないんだからせめて栄養くらいきちんと取れって何度言ったらわかるんだよ」
「げ、誰かと思ったら三宅じゃん。いや、まぁ、寒いし仕方ない、うん、仕方ない」
「仕方ないとか言うなら風邪をひく度に僕に連絡してくるのやめてくれませんかね……」
「それとこれとは別ですよーん」
 そう言いながら塚原は先ほどまで僕が座っていた場所、つまりゲームのコントローラーの前に陣取った。食べながらゲームを続けるらしい。
 彼女は塚原美嘉。この部室に住まう妖精……ではなく、人間だ。まぁしょっちゅうここにいるので、住まう妖精と言ってもやや過言かもしれない、くらいだけれども。さっき考えた足音で部員か否かを当てる化け物はこの女だった。
今日の格好は黒のスキニーにデニムのシャツ、カーキ色のモッズコート。いわゆるウルフカットとでも言うのだろうか、栗色に染まった髪が踊り、切れ長の目が凛々しさを増している。
男から見ても、凛として見える彼女の中身もわりと男に近かった。声も態度もでかいし、口も悪い。自分勝手で、独善的。
それでも彼女はなぜだか部活の中では人気がある。後輩にも慕われているのだから不思議だ。カリスマ性とでも言うのだろうか、人を惹きつける何かが彼女にはあった。
そんな彼女と僕は部活の中ではそれなりに話す仲だ。個人活動が多いこの部活の中で部室によくいるのが、僕と彼女くらい、というのが大きいところだ。二人でいるのに延々と黙りこくっているのもなんなので、少しは話している。そうは言っても彼女が一方的に僕に話しかけて僕はてきとうに相槌を打つだけなのが常なのだけど。
あとは、何度か彼女が飲み過ぎた時に家まで送っていったり、風邪をひいた時に何かを買って行ってやったりするくらいだ。
正直なところそういう時は自分で何とかしろとも思うのだが、放っておくと後々何かとうるさいので仕方なく面倒を見ている。
「てか、この間試験終わったって言ってなかったけ? なんで今日来たのさ」
 塚原はカップラーメンをすすり、テレビの画面を見ながら僕に問いかけてくる。テレビでは、画面の中の勇者たちがラスボスのヒットポイントを削っている。
「ん、いや、別になんとなく。寒くて後悔してるけど」
「今日めっちゃ寒いよ。そもそも今年の冬は全般的に寒い」
「全般的ってなんだっよ、全般的って」
「言葉なんて伝わればいいんだからそこんとこ突っ込まないの。どぅーゆーオーケー?」
「はいはい」
 他愛のない会話をしているうちにもどんどん画面の中ではクライマックスへと向けて魔法や必殺技が飛び交っている。
「それさ、あれだっけ、結構ラスボスがしょぼいんじゃなかったっけ?」
 僕がそう問いかけると、彼女はこちらの方に気のない返事で答えてくれた。
「そうそう、なんか、仲間を沢山犠牲にして、ついでに自分のことも思い出も全部犠牲にして倒さないといけない害悪っていうのががあまりにも小さいんだよね、えっ、これで終わり? みたいな印象。あんまりラストは好きじゃないんだよね」
「それ、わざとらしいよ。昔、攻略本のインタビュー記事で見た」
「ふーん」
 そう呟いて部屋からは会話がなくなった。けれど部屋の中には、テレビからの金属音や爆発音、それと時々隣からラーメンをすする音が聞こえていたから静か、というわけでもなかった。
塚原が操作している画面をぼーっと眺めていると、先ほど話したラスボスが出現する。何かこだわりがあるのか、塚原は主人公までターンを回してとどめを刺した。
「終わり終わり」
 コントローラーを投げ出して、塚原は残っていたカップラーメンを一気に流し込んでいる。画面に流れる感動的なエンディングとは対照的で、なんだか少しだけ笑いそうになった。
ふぅ、と塚原が息をついた時には、エンディングも佳境で、ヒロインが演説をしている場面へと移り変わっていた。二人して、その映像を眺めていると、塚原がポツリと言う。
「あたしさー、これの泉のシーンが大好きで。それを見るためにやってたんだけど、そこでやめようとも思ってたんだけど、なんだかもったいなくて、結局ここまでやってしまった」
「結構感動的だよな、あれ。映像も出た当時からするとすごい綺麗だし。イベント直前でセーブして何度も見てた、親父が」
「親父かよ」
「いや、だって、俺は親父がやってたの見てただけだし」
「なにそれ」
 そんな他愛のない会話を続けているうちに彼女はカップラーメンを食べ終えたようで、他の色々なゴミで満たされているゴミ箱に投げ入れる。
「ゴミ、いっぱいだから捨ててくるわ。もう冬休みだしいくら寒いとは言え、腐ったらかなわん」
 ありがとー、なんて軽い言葉を背中に受けて、もう一度寒気の中へと足を踏み出す。暖気の中に居たからか、寒さが余計に身に染みるとうに感じた。小走りで階下のゴミ捨て場へと向かう。部室棟の中にはちらほら明かりがついている部屋があるけれど、どれも静かな夜を過ごしているようだった。
「やっぱり今日は寒いわ、明日雪でも降るんじゃね? 空きっ腹には結構効く、気がする」
「あー、さっき携帯で天気予報見たけど、雪降るみたいだよ」
「げっ、まじか勘弁してください、なんとかならないですかね、塚原さん」
 手のひらをすりあわせてヘコヘコとした調子でそう言ってみると「そんなことできたら私は先物取り引きでもして億万長者だよ、この間抜け」と即断されてしまった。少し悲しい。
「というか、空きっ腹って晩飯食ってないの? もう遅いし食べてるものだと」
「んー、さっき酒と一緒にナッツを食ったけどそれくらい。お前も食べてなかったら一緒に行こうかなって思ったけど、さっきカップラーメン食べてたし」
「あっ、それはなんかごめんね」
「いや、別に謝られることでもない」
 ふーん、と小さく言って塚原は伸びをした。そして軽く息を吐いて立ち上がった、と同時に大きな音をたてて机に太ももを打ち付けた。
「いった……」
「だ、大丈夫か?」
「うん、あんまり気にしないで」
 塚原はひとしきり身悶えると、また息をはいて立ち上がる。今度は机に太ももを当てることはなかった。
「あー、痛い。まっ、おなか空いたんでしょ? そしたらね……」
 塚原はそう言いながらテレビ台と化している冷蔵庫へと歩み寄る。もしかして、コンビニで買った何かでもあるのかと期待した僕に差し出されたのは、意外な物体だった。
「これ。腹減ってんだったら、少しは足しになるだろうし」
 そう言った塚原がこちらを向き直った時には、少し震えている右手にきれいな包装をされた小箱が収まっていた。
「いらないなら、持って帰るけど」
 予想を外して、驚いて固まってしまっていた僕は、その言葉に我に返り、塚原の右手から恭しくその小箱を受け取る。
「あのさ、これって」
「別にそういうわけでもなくて、ただ、余ってたから、どうしようかなって、思っててね。偶然あんたがお腹が空いているって言うから、ただそれだけ。なんとなく、かわいそうだからあげるわよ」
 なんとなく。かわいそうだから。
僕の手の中にあるそれは明らかに余ったからで渡すそれではない。そのことを口にしようとすると、彼女は僕の言葉を遮って彼女は僕に二の句を告げなくしてしまった。
小箱は、白色のリボンに水色の包装紙に包まれていて、うまく開けられずに少しだけ包装紙の端を破ってしまう。なんてことない動作なのに、隣から視線を感じているとなんだかうまく破けなかった。
水色の中には白色の円形が包まれている。なかには当然のごとく、かどうかはわからないけれど、茶色のチョコレート。
つい手にとってまじまじと眺めてしまう。包みも、形も明らかにプロの仕事でない。間違いなく彼女がやったものに違いないだろう。
もしかして、本当にあげようと思っていた相手に渡せなかったとか。持ってきたのに会えなかったとか、想い人には実は彼女がいたとか。
「食べないの」
 そんな若干の現実逃避を脳内で行っていると塚原が不機嫌そうに尋ねてくる。
「あっ、いや、いただきます。悪いな、なんか」
「別に、なんとなく、だから」
 そう言うけれど、彼女よりちょっとだけ経験を積んでいて、なんとなくでは無いことを知っている僕は七つあるチョコレートから真ん中の一つを選ぶ。箱のなかでちょっと崩れて並んでいたチョコレートの真ん中がポッカリと空いた。
 球状のそれの半分だけかじり取り、もう一度元の場所へ戻す。舌へとその味が伝わった瞬間に思わず笑ってしまった。そんな僕に、塚原は不安と驚きが入り混じった視線を向けている。
多分、彼女は僕に感想を求めているのだと思う。
僕はというと、感想はすぐに思いついていた。けれど、抱いた感想をそのまま口にしてしまってよいか迷っていたのが正直なところだ。頭の中に浮かんだ言葉を言ってしまえば怒られてしまうだろうし、弁解に時間もかかるだろう。けれど、この台詞は今の僕にとってはある意味最高の褒め言葉であるし、むしろ嘘をついてしまうのもなんとなく自分を偽っているような気がして嫌だった。
僕は、相変わらずこちらを凝視している塚原に思い切って感想を正直に伝えることにして口を開く。今の僕にとって、最高の褒め言葉を彼女に伝えるために。
「まずいよ、これ」
 その後のことは言うべくもない。
ただ蛇足ながら一言だけ。僕の冬休みの予定は、結構埋まった。一年後はどうなっているか知らないけれど。